カマカ・ジャパンの謎<つづき>


カマカによれば、1963年から1970年までの間、海賊版モデルの対策のため、Tokyo Stringed Manufacturing Co., Ltd.と共同でKamaka Japan LTD. を設立した事になっています。
このことは、日本のウクレレ史に残る金字塔ともいえる偉業なのに、現在ではTokyo Stringed Manufacturing Co., Ltd.がどのような会社であったか判らなくなっており、とても残念に思っていました。


長い年月が経っているので、詳しい情報を得ることを半ば諦めかけていたのですが、なんと!当時のカマカ・ジャパン社長の義理の息子さんであるmarubashi様からメールを頂戴しました。

それによると、カマカ・ジャパンは昭和30年代後半から50年代前半にかけ存在した東京弦楽器製作所のことで、本社が東京都世田谷区奥沢、工場は茨城県の水海道市にあったそうです。

社長の遠藤 弘 氏(故人)は、岡山県津山市出身(ルナウクレレの会社が隣の美作市ということは全くの偶然)で、旧制津山中学を卒業後、早稲田の予科から大学へと進学し、卒業後は陸軍の将校としてジャワやシンガポールに赴任したそうです。
終戦後はいくつかの仕事に携わったようですが、戦前に旧制女学校へ入るまでハワイで育った夫人との関係で、ハワイの知人を通してカマカ氏からウクレレの製作を依頼されたそうです。
そして、OEMでカマカウクレレを作りハワイに輸出していたのですが、ニクソンショック以降だんだんと円が強くなったっため会社経営の妙味がなくなり、ついに閉鎖したそうです。
marubashi様は、お義父様がウクレレを弾いている姿を見た記憶がないそうで、それよりも学生時代に没頭したラグビーに対する情熱が強く、40歳代では不惑倶楽部に入ってプレーし、母校愛から夏は菅平に、海外遠征では英国やニュージーランドに夫人と一緒になって後輩を追いかけていたそうです。

ご夫人は、現在もご健在で90歳を超えるお歳ながら今もってハワイへ行き来しているそうで、機会があればmarubashi様がカマカ・ジャパンについて問い合わせてくれるということなので、新たな情報があることを楽しみにしています。



遠藤社長夫妻とお嬢様が1985年7月にKamaka FamilyをOahuに訪ねたときの写真
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Samuel Kamaka Jr.の娘さんのKittyが早稲田大学へ一時期留学中に、marubashi様一家が遠藤社長夫人と1978年10月に鎌倉へ案内したときの写真
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marubashi様、貴重な写真どうも有難うございました。



<追記>
marubashi様が、わざわざ遠藤社長夫人のところへ伺って問い合わせてくださいました。
夫人は直接事業に関わっっていなかったので、残念ながら詳しいことはご存知ないということでした。
それでも、ケイキ、パイナップル、それにアロハという名前は聞いたことがあるそうです。
また、なにか縁(義理?)があってペグはヱトーネジ(現在のヱトー商事)から仕入れていたこと。
遠藤社長は、よく銀座のヤマハ楽器に通っていたこと(日本国内販売のためかは不明)
会社は株式会社であったこと(但し前株か後株か不明)
夫人は工場へ行かれたことがないそうですが、工場長は小菅さんという方で世田谷の本社へ何度かいらしていたこと
なお、お嬢様(marubashi様の奥様)は一度だけ遠藤社長に連れられて工場へ行ったそうで、線路沿いにあったことを憶えているそうです。
といった新事実が判明しました。
遠藤社長夫人、marubashi様、どうも有難うございました。

なお、遠藤社長夫人の話にあるヱトーネジのペグとは、カマカ・ジャパン製品に良く見られる六角ブッシュのペグのことだと思われます。




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